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zoom RSS 権力を「私(わたくし)」するということ

<<   作成日時 : 2015/04/17 18:25   >>

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 公権力の行使を許されている権力者は、たえず、その権力の行使が、国家・国民のためであるか、また、その行使について独善はないか、自問自答しなければならない。

 自民党が、今日、NHKとテレビ朝日の幹部を読んで、特定番組につき、事情を聴いたという。
 なかでも、問題は、テレビ朝日の「報道ステーション」において古賀茂明氏が、コメンテーターを馘首されるにあたり、安倍官邸の圧力が背後にあったと主張していたことを放送法に反するとして、「対応をききたい」としている点である。
 すでに、菅官房長官も「放送法」をちらつかせて、NHKとテレビ朝日に「自主」的に「対応」を促しているようでもあり、権力の座にあるものが、その権力を背景として、「自主」的、「自律」的として圧力をかけるのに、まったく遠慮をしている様子はない。
 民主党によるNHK会長追い落としも、一歩誤れば、報道への権力の介入となろうが、これはまだ、ある特定の人物が公共放送の責任者として適格性を欠くかどうかという、人事面での抗争にすぎないのに対し、自民党のおこなっていることは、特定番組の特定の人物の特定の発言を葬ろうとするものであり、「表現の自由」への侵害は、直接的であり、また、深い。

 放送法の不偏不党の趣旨は、放送事業全体としてとらえられるべきなのであって、特定番組がたまたま政権に批判的な人物の発言を紹介したからと言って、ただちに、放送法に反するものとするのは、あきらかにおかしい。
 そもそも、放送法の不偏不党、公平中立は、絶対的・客観的な標準となりえないものであり、もともと、幅のありうる観念である。
 まして、古賀氏のあの発言は、テレビ朝日、あるいは、番組制作者として全体として周到に用意されていたものとみることができない、多分にハプニング的なものであろう。
 そして、古賀氏の主張自体が、うらでこそこそ圧力をかけるようなことをするな、という点にあるのであるから、古賀氏の言い分に納得できないというのであれば、放送法がどうのこうのという放送事業者の免許をたてにとるようなことをするのではなく、番組に出てきて、そういう事実がいっさいないというこを、視聴者、国民に説明すれば足りる話ではないか。
 それを、「どのような対応をするのかみる」などという陰険な話にするのは、これを奇貨として、マス・メディアを支配しようとする底意があるとみられてもしかたのない話である。

 このようなことを平気で行うのは、いま、自分たちが権力の座にあることが、所詮、当座国民から権力をあずかっているにすぎないということの自覚がないからである。
 自民党は、野に下って権力の座から転落し、権力のありがたみを思い知ったせいか、かえって、権力の行使に自制がなくなった。つまりは、そもそも権力は国民のものであって、「私」することは許されないということを忘却している。(ちなみに、民主党は政権についたときから、舞い上がってしまったのか、権力が国民から負託されたものであって、その負託の範囲内で行使すべきことを忘却してしまった。)

 まして、NHKのことなど、それ自体はとんでもない話だが、しかし、よくある話だ。
 再発防止といってみても、メディアでは構造的な問題というよりほかない。

 そもそも、古賀氏はもともと、こういう陰謀論的な思考方法をとる人物であったことは、いままでの発言をみればわかることだ。
 ほっといても、大した問題ではないのに、反応が過敏なのは、むしろ、古賀氏の主張を裏書きしているようなものだ。早い話が、図星だったのか、ということだ。

 安倍本人が、かつてNHKの番組制作に圧力をかけた疑いをもたれており(裁判では、NHKが「自主」的に過剰反応したということになっている)、官邸や自民党は、もっと、慎重になるべきではないか。

 
  

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