「守秘義務」以前に説明責任は果たされたのか? ~「秘密保護法」前夜の日本を憂う~
情報管理という点からは、政府が「犯人捜し」を行うのも分からなくはない。
しかし、「守秘義務違反」という国家公務員法違反に対して、形式的に刑罰の対象となるといっても、これを犯罪捜査の対象とするのは、どうなのか。
実質的に捜査は終結しており、かつ、「被疑者」の人権を考慮すべき事情がほとんどなく、かつ、本件テープを秘匿する政府利益が必ずしも明確でない、つまり、刑罰をもって保護すべき利益がないような今回のケースについて、人事上の懲戒処分のような行政処分ならまだしも、犯人割り出しに警察力まで利用するというのは、どうも、行き過ぎにように感じざるを得ない。
まして、ネット上の「国粋主義者」がいうように、中国漁船船長に示した「寛大さ」を念頭におけば、明らかにそれとの均衡を失しているという印象はぬぐいえない。
さらに、その捜査の過程で、必ずしも映像を投稿した人物が国家公務員であるとか、あるいは、その人物の共犯関係にあるとかはっきりしていない状態で、通信記録を差し押さえるというのは、違法ではないかもしれないが、気味が悪い。
政府が、情報管理の杜撰さに対する批判に応じる形で、政府自体の情報管理体制を踏み越えて、市民社会における情報管理を目指すことになるというのは、どうも筋違いという気がしてならない。
鳥越俊太郎が、8日の報道番組で「犯人捜し」に狂奔する権力と、これに加担するマスコミを戒める発言をしていたが、それは、仙谷官房長官のこの発言が影響していただろう。
仙谷の発言は、直接には政府自体の機密保全法制ということだが、石破自民政調会長の秘密保護法制に関する質問に対する答弁であり、かつ、上記のグーグルに対するそれからみてわかるように、運用次第では、市民社会に対する情報統制として機能するものになりかねない危険性がある。
おそろしいのは、民主党政権の為政者たちから、危険性に対する認識というか自覚がまったく感じられないことである。
考えてみれば、民主党政権は、「政治主導」の名の下、省庁幹部(高級官僚)による記者会見等を禁じるなど、国民のいわゆる「知る権利」に配慮をし、あるいは、事務方や現場の「異論」に耳傾ける、ということを全面的に否定してきた。むろん、自民党政権下で、それがどれだけ重んじられてきたかは全く心もとない限りだ。しかし、民主党政権下は、こういうデリケートな問題に対する善意の「無頓着」さが、しばしば見受けられる。
どうも、民主党という党は、コミュニケーションというものを軽んじるような風潮があるのではないか。
国家公務員法の守秘義務とて、使われ方次第では「秘密保護法」のように使われうるという教訓は、実は、やはり外交問題に関する「安保密約」に関する西村西山事件という例がある。
彼のやり方については、素朴な感情として、了解しかねるところもあるが、しかし、彼を処罰に持ち込むために政府が、国家公務員法違反の教唆という枠組みを利用したという点は忘れてはならない。
このような、おそるべき前例があるのに、メディアが、政府の情報管理能力の欠如を批判する大合唱にのっかり、権力が狂奔する「犯人捜し」に加担しているのは、先ほど述べたように救いがたい現象だ。
さて、で件の映像をみた国民は、これを公開しないという政府の判断を是とするだろうか。
率直に言って、非公開にするという理由がわからない。
非公開にする政府の利益とは、証拠上明白な犯罪者である漁船の船長を釈放したという事実を隠ぺいしようとしたことにあったとしか考えられない。
これが、中国政府に対する気兼ねからくるものならば、ある種の「密約」ともいえようし、そうでなければ、国益よりも権力愛におぼれた政権が、自己の失態を糊塗しようとするだけのことであり、そこに国民に利益は眼中にない。
中国の政治体制を「言論の自由」がないと、われわれはしばしば批判する。
むろん現在の体制が中国同然とはいわないが、権力者の「本音」というか「本性」というものは、いずれの国であっても、そう変わらないものだと考えなくてはならないと、しみじみ感じた。
我が国の為政者も、民主制の基盤たる「国民に対する説明責任」、「国民の知る権利」というものを、本音では尊重したくないのだ。都合の悪いことは、やはり、隠しておきたいのだ、と。
しかし、「守秘義務違反」という国家公務員法違反に対して、形式的に刑罰の対象となるといっても、これを犯罪捜査の対象とするのは、どうなのか。
実質的に捜査は終結しており、かつ、「被疑者」の人権を考慮すべき事情がほとんどなく、かつ、本件テープを秘匿する政府利益が必ずしも明確でない、つまり、刑罰をもって保護すべき利益がないような今回のケースについて、人事上の懲戒処分のような行政処分ならまだしも、犯人割り出しに警察力まで利用するというのは、どうも、行き過ぎにように感じざるを得ない。
まして、ネット上の「国粋主義者」がいうように、中国漁船船長に示した「寛大さ」を念頭におけば、明らかにそれとの均衡を失しているという印象はぬぐいえない。
さらに、その捜査の過程で、必ずしも映像を投稿した人物が国家公務員であるとか、あるいは、その人物の共犯関係にあるとかはっきりしていない状態で、通信記録を差し押さえるというのは、違法ではないかもしれないが、気味が悪い。
政府が、情報管理の杜撰さに対する批判に応じる形で、政府自体の情報管理体制を踏み越えて、市民社会における情報管理を目指すことになるというのは、どうも筋違いという気がしてならない。
グーグルに差し押さえ令状=東京地検に捜査移管-警視庁、海保を聴取
中国漁船衝突のビデオ映像流出事件で、検察当局は9日までに、捜査主体を福岡高検から東京地検に移した。同地検は同日、動画サイトを運営する「グーグル」(東京都港区)に対し、投稿者に関する通信記録の差し押さえ令状を取った。
警視庁は海上保安庁(千代田区)の職員から事情聴取し、沖縄県警と合同捜査本部を設置。県警はインターネットカフェに防犯カメラなどの記録の提出を求めていることも捜査関係者への取材で分かった。
衝突映像が流出したのは、グーグルが運営する動画サイト「ユーチューブ」。4日夜、「sengoku38」名の投稿者が、衝突場面を含む計約44分の映像6本を公開した。
捜査関係者によると、押収対象はインターネット上の住所に当たる「IPアドレス」などの通信記録とみられる。アドレスをたどれば、投稿に使ったパソコンの所在地を特定できる可能性がある。(2010/11/09-22:27)
鳥越俊太郎が、8日の報道番組で「犯人捜し」に狂奔する権力と、これに加担するマスコミを戒める発言をしていたが、それは、仙谷官房長官のこの発言が影響していただろう。
首相、映像流出を陳謝=官房長官、機密保全と領域警備へ法整備-衆院予算委
菅直人首相は8日午後の衆院予算委員会で、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件を撮影したビデオ映像がインターネット上に流出したことについて、「政府としては管理不行き届きだった。おわび申し上げたい」と陳謝した。また、「原因を徹底的に究明しそれを明らかにすることが第一だ」と強調した。自民党の塩崎恭久元官房長官への答弁。
首相は、流出映像について「ネットでは直接見ていない」としつつ、一部の国会議員に限り視聴が認められた約7分間の衝突映像は、10月27日朝見たことを明らかにした。
自民党の石破茂政調会長が、政府の機密保全のために「秘密保護法制が必要」と主張。これに対し仙谷由人官房長官は「法制度上も仕組みの上でも制度を早急に検討し、成立へ努力したい」と答弁。さらに「領域警備体制の法整備を早急に進めなければならない」と語った。
(以下略)(2010/11/08-19:41)
仙谷の発言は、直接には政府自体の機密保全法制ということだが、石破自民政調会長の秘密保護法制に関する質問に対する答弁であり、かつ、上記のグーグルに対するそれからみてわかるように、運用次第では、市民社会に対する情報統制として機能するものになりかねない危険性がある。
おそろしいのは、民主党政権の為政者たちから、危険性に対する認識というか自覚がまったく感じられないことである。
考えてみれば、民主党政権は、「政治主導」の名の下、省庁幹部(高級官僚)による記者会見等を禁じるなど、国民のいわゆる「知る権利」に配慮をし、あるいは、事務方や現場の「異論」に耳傾ける、ということを全面的に否定してきた。むろん、自民党政権下で、それがどれだけ重んじられてきたかは全く心もとない限りだ。しかし、民主党政権下は、こういうデリケートな問題に対する善意の「無頓着」さが、しばしば見受けられる。
どうも、民主党という党は、コミュニケーションというものを軽んじるような風潮があるのではないか。
国家公務員法の守秘義務とて、使われ方次第では「秘密保護法」のように使われうるという教訓は、実は、やはり外交問題に関する「安保密約」に関する
彼のやり方については、素朴な感情として、了解しかねるところもあるが、しかし、彼を処罰に持ち込むために政府が、国家公務員法違反の教唆という枠組みを利用したという点は忘れてはならない。
このような、おそるべき前例があるのに、メディアが、政府の情報管理能力の欠如を批判する大合唱にのっかり、権力が狂奔する「犯人捜し」に加担しているのは、先ほど述べたように救いがたい現象だ。
さて、で件の映像をみた国民は、これを公開しないという政府の判断を是とするだろうか。
率直に言って、非公開にするという理由がわからない。
非公開にする政府の利益とは、証拠上明白な犯罪者である漁船の船長を釈放したという事実を隠ぺいしようとしたことにあったとしか考えられない。
これが、中国政府に対する気兼ねからくるものならば、ある種の「密約」ともいえようし、そうでなければ、国益よりも権力愛におぼれた政権が、自己の失態を糊塗しようとするだけのことであり、そこに国民に利益は眼中にない。
中国の政治体制を「言論の自由」がないと、われわれはしばしば批判する。
むろん現在の体制が中国同然とはいわないが、権力者の「本音」というか「本性」というものは、いずれの国であっても、そう変わらないものだと考えなくてはならないと、しみじみ感じた。
我が国の為政者も、民主制の基盤たる「国民に対する説明責任」、「国民の知る権利」というものを、本音では尊重したくないのだ。都合の悪いことは、やはり、隠しておきたいのだ、と。
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