nagoyan

アクセスカウンタ

zoom RSS 「平和を愛する諸国民の公正と信義」は信頼するに足るか 韓国10.30判決に思う

<<   作成日時 : 2018/11/04 02:04   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 まず、現在の状況下では、憲法改正を行うことには賛成できないと考えている。
 それは、現在の改憲の主張が、現行憲法に対するルサンチマンから出た情緒的な、いいかえれば、幼稚な主張に過ぎないからである。
 現行憲法の制定以来、日本国民とその政府は、現行憲法をまずまず、適切に運用してきたと評することができる。
 現行憲法の下、自衛隊の存在は、完全に国民に定着した。また、異論はあるものの、自衛隊の「国際貢献」も概ね国民の理解と支持を集めているといえるだろう。
 むろん、制度的には、文民統制の「後退」ともとれる動きも進行し、将来、制服組を、本当に政治家が統制できるのか心もとない側面もあるが、現時点の、幹部自衛官の高い職業意識を信頼すれば、これは「杞憂」の側面もあるだろう。また、運用にあたって、国家の「武力行使」と部隊の実力行使を、「等号で結ぶ」ような雑な議論が幅をきかせているため、現場部隊に過剰な責任を負わせているのは、個人的には疑問に感じているが、これも憲法を改正しなければ解決しないという問題ではない。
 むしろ、いわゆる「護憲・平和」勢力の過剰な政治的主張のために、憲法の範囲内で適切な実力行使が可能であるのにもかかわらず、その当然許されるべき実力行使を行うことができないとする解釈のために、却って、憲法の制約を取っ払ってしまわなければならないと解釈するのは、まさに、角を矯めて牛を殺すかのような議論である。
 それはさておき、つまり、わたしは、決して絶対的な護憲主義者ではないが、憲法改正の立法事実が存在しない以上、あえて、国論を二分する憲法改正に着手する必要性はないし、するべきではないという立場である。

 以上は単なる前置き。
 このような立場に立つ、わたしからみても、韓国のここ数年来の自己中心的な振る舞いは、日本の護憲派の立論の基礎を掘り崩してきており、この2018年10月30日の判決に至って、とうとう護憲派がとどめをさされたと感じるに至った。
 では、その理由を、以下に簡単に述べてみたい。

 まず、ここで、現行憲法の前文第二段落の有名な一節を、念のために引こう。
 日本国民は(中略)、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 

 日本国民は、他の国民の公正と信義を信頼できるものとしたからこそ、憲法9条を制定し、かつ、現在までこれを保持してきたのだ。むろん、現実政治の中では、日米安保や自衛隊の存在こそが、理念以外の部分で、今日までの「平和」を支えてきたという主張も理由のないことではないが、すくなくとも、日本国民の「理念」のレベルでは、この憲法前文の「決意」は生き続けてきたのである。

 では、ここで、諸国民の公正と信義とは、いったい、なんであろうか。
 それは、国家の数だけあるような、「正義」とは、別の客観的なものを含むものだろう。たとえば、国家間の約束を守るというのは、その一番の、基本的な、基礎的なものであろう。
 なぜならば、たとえば、日本国に対して、侵略することはないと某国が日本国に約束して見せても、その約束が守られないのだとすれば、そのような某国の振舞いを公正なものとし、あるいは、信義のあるものとして、信頼し、安全と生存を委ねることなどありえないからだ。
 またこれは、少なくとも、不戦条約が締結される以前の国際社会では、単なる条約違反ですら、正当な開戦原因になりえたぐらい、国家間の約束は、すくなくとも理念レベルでは、「神聖」なものだったことからも、裏打ちされる。

 まず、植民地支配が当然に不正義であるという主張は、普遍的なものかということもあるが、仮にそうであったとしても、そうした、負の清算をすでに1965年の日韓基本条約と請求権協定により解決されているのであるから、今回の韓国大法院(最高裁)の判決は、あのときは、仕方なく同意したものの本意ではなかったとして、わば「和解」契約を反故にするものである。
 これは、行政といい、司法といい、関係のない話である。韓国国家の主権行為により、すでに他国の間で取り交わした約束を反故にするのであるから、日本国からは、それが大統領であろうが、裁判所であろうが、韓国の行為には違いないからである。
 つまり、韓国大法院は、判決という形をとって、日韓基本条約、請求権協定の破棄を行ったのである。

 であるからには、日本国民は、まことに不幸なことに、平然と約束を破る無法者である国家を隣国にもっていることに気づくことになったわけである。
 半世紀も前に解決し、それを前提に様々な協力関係が築かれてきたはずであったのが、自国の経済力に自信が持てるようになったら、それまでの友好関係を弊履のように捨て去る人々が隣にあるということ、否応なく直面させられたのである。
 すでに、いわゆる慰安婦合意の度重なる反故については、百歩譲って、日本側の修正主義者の行為が原因となった要因も、なくはないが、本件については、いかなる、言い訳もできないだろう。
 まして、1965年時点の話だけではなく、ノムヒョン政権下の韓国において、この理解を双方で確認しているにも、かかわらず、である。


 約束は破られるのだ。いままで、日本が平和であったのは、単に相手に力がなかっただけのことであり、相手が公正でも信義に満ちているからでもなかったのだ、という、ある意味、当たり前の事実を、当たり前に露呈させることになった。
 当然、この認識は、憲法前文の理念を傷つけずにはおかないはずである。

 しかし、戦後70年。その70年間日本企業から補償を受けられなかったために、生活苦にあったのだとすれば、その人々に対しては、日本人として同情する。また、すべきである。
 しかし、その70年間、その同胞に救いの手を差し伸べなかったくせに、こと日本に対するとなると、まるで、わが身に起きたように興奮して日本を批判する、かの国の偽善者どもをみるにつけ、まことに腹立たしい。斯様な連中は、唾棄すべき「反日」レイシストである。

 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「平和を愛する諸国民の公正と信義」は信頼するに足るか 韓国10.30判決に思う nagoyan/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる