「公正な論評の法理」を適用中(って、いいわけですけど)
浜辺陽一郎が「名誉毀損裁判」(平凡社新書)という本を出したが、この本にとっては、ラッキーだったろう。
というのは、例のNHK番組改変問題が、「表現の自由」についてひとびとの関心を呼び覚ましているから、である。
この本の企画自体は文春事件を契機にしただろうな、と思うが、時期的にはドンピシャであった。
学者先生の「表現の自由」に関する本に比べて、法律実務家(といっても、この方もロースクールの客員教授ですね。)の感覚から書かれているので、その点でフレッシュである。(たとえば、外国法の研究より、最高裁判例を追いかけつつ戦後事件史を描いた(第2章)り、名誉毀損事件に遭遇した法律家がどのように対応するかを描い(第3章)ているのは、大変面白かった。)
ま、全体の趣旨からはバランスの上こういうことになっているのだろうし、それこそ、法律家の感覚としては、こうなんだろうとは、思うのだけれど、おや、と思った点もあった。たとえば、
ところで、名誉毀損訴訟を提起すること自体が、言論の弾圧であるという意見がある。特に、言論機関が原告になった場合などには、不服があれば言論の市場において勝負すべきであり、名誉の回復を裁判所の権力に頼るのでは言論機関として失格であるというのだ。(中略)
確かに、メディアは自らのメディアを通してでも反論ができるのだから、できるかぎり訴訟を避けて、言論で対抗すべきだと言うことは一般論として妥当するかもしれない。また、訴訟には弁護士費用等の特別の費用がかかるし、訴訟戦略等に神経を使わなければならない面もあって、とても非経済的なものである。
しかし、裁判を起こすこと自体も、一種の表現だ。訴訟の審理における論争も、物理的暴力とは異なる平和的・紳士的な手段で行われる。言論機関といえども、著しく不当な誹謗中傷を受けた場合に、司法的な救済を否定するわけにいかない。お互いに言論の場でやりあっていただけでは埒があかないとか、言論の場で議論すること自体が不適切であるとか、著しく不当な名誉毀損事件では、裁判という選択も合理的だ。虚偽の事実が数多く含まれ、社会的にも大きな影響を与えうるメディアによる悪質な名誉毀損だというならば、被害者がメディアという一事をもって法的救済を控えるべきだと考える合理性は乏しい。
ほかの団体と同様に、訴訟を通じて真相を明らかにして、一般社会に訴えることことが望ましいこともある。対抗言論だといって、自らのメディアで好きなことを自由に主張しているだけでは、一般社会に対する説得力としては今一つ弱い面もある。そこで、言論の市場で処理しきれなくなったら、最終的には裁判という公の場で議論して審判を下してもらうほかない。(後略)(116頁~117頁)
法律家らしいバランスのとれた優れた見解であるが、疑問もある。
1 まず、「訴訟を通じて真相を明らかに」する、というのはどうであろう。法律家のおごりはないであろうか。裁判所は法律問題を裁くところで、具体的には名誉権の侵害の有無に焦点が絞られる。名誉権の侵害があったかなかったか、という法律問題については「真相」が明らかになりうることは期待できても、事件自体の「真相」があきらかになると考えるべき根拠はない。
2 そうであるとするならば、メディアが事件ないし紛争自体の真相を明らかにせずに、名誉毀損という法律的な問題を争うというのは「権利救済」の問題としては理解できるが、「一般社会に訴えること」を目的としてはいけないのではないか。まして、対抗言論では説得力がないが、裁判所の判決には「説得力」があると考えるのは、メディアの側が自分自身の存在意義を放棄しているようにすら思える。
3 そして、そもそも、裁判所といえども、国家機関であることを思えば、メディアが軽々しくその権威に傅くべきではないであろう。
とすれば、朝日新聞がNHK問題について、NHKに対して訴訟も辞せず、というのはどうなんだろう。もちろん、朝日新聞の権利が侵害されているのなら、その救済を裁判所にもとめるのはわかる。たとえば、損害賠償を得たいというのなら。
しかし、名誉の回復を求めるというのは、どうなんだろうか。
だいたい、朝日はメディアへの政治の介入がけしからんといって、あの記事を掲載したのであろう。もちろん、政治家が隠微に番組内容に介入した(というのは、朝日の主観)ことと裁判所の判決とは同断では無かろうが、しかし、メディアに権力がなにがしか強制するという点では同じである。裁判所という国家権力の前に表現の自由がひれ伏しても結構というのなら、それでもよい。しかし、表現の自由は、本来、公権力の行使からこそ、もっとも自由であるべき権利である。
もし、そうでないというのならば、朝日は人権擁護法案に反対する理由を示すべきであろう。(因みにわたしは、徹底して反対である。(なお、極論ということを前提として聞いていただきたいが、法と経済学派のある重鎮はプライバシーは保護されるべきでないと主張している。わたしは、これに同調しないが、プライバシー権というのはその程度のものとの認識も必要だと思っている。))
裁判所の裁判官の方が、NHKの視聴者や朝日の読者より真相を見つけうるのだと考えるのは、一種の権威主義ではないか、と思う。
権威主義一般がいけないというわけでもないかもしれないが、権威主義的であるという自覚は、せめて必要であろう。
それにしても、この問題の登場人物達は、いずれも、なんというか、矜持を感じさせないね。
(っと、これは名誉毀損それとも侮辱)
というのは、例のNHK番組改変問題が、「表現の自由」についてひとびとの関心を呼び覚ましているから、である。
この本の企画自体は文春事件を契機にしただろうな、と思うが、時期的にはドンピシャであった。
学者先生の「表現の自由」に関する本に比べて、法律実務家(といっても、この方もロースクールの客員教授ですね。)の感覚から書かれているので、その点でフレッシュである。(たとえば、外国法の研究より、最高裁判例を追いかけつつ戦後事件史を描いた(第2章)り、名誉毀損事件に遭遇した法律家がどのように対応するかを描い(第3章)ているのは、大変面白かった。)
ま、全体の趣旨からはバランスの上こういうことになっているのだろうし、それこそ、法律家の感覚としては、こうなんだろうとは、思うのだけれど、おや、と思った点もあった。たとえば、
ところで、名誉毀損訴訟を提起すること自体が、言論の弾圧であるという意見がある。特に、言論機関が原告になった場合などには、不服があれば言論の市場において勝負すべきであり、名誉の回復を裁判所の権力に頼るのでは言論機関として失格であるというのだ。(中略)
確かに、メディアは自らのメディアを通してでも反論ができるのだから、できるかぎり訴訟を避けて、言論で対抗すべきだと言うことは一般論として妥当するかもしれない。また、訴訟には弁護士費用等の特別の費用がかかるし、訴訟戦略等に神経を使わなければならない面もあって、とても非経済的なものである。
しかし、裁判を起こすこと自体も、一種の表現だ。訴訟の審理における論争も、物理的暴力とは異なる平和的・紳士的な手段で行われる。言論機関といえども、著しく不当な誹謗中傷を受けた場合に、司法的な救済を否定するわけにいかない。お互いに言論の場でやりあっていただけでは埒があかないとか、言論の場で議論すること自体が不適切であるとか、著しく不当な名誉毀損事件では、裁判という選択も合理的だ。虚偽の事実が数多く含まれ、社会的にも大きな影響を与えうるメディアによる悪質な名誉毀損だというならば、被害者がメディアという一事をもって法的救済を控えるべきだと考える合理性は乏しい。
ほかの団体と同様に、訴訟を通じて真相を明らかにして、一般社会に訴えることことが望ましいこともある。対抗言論だといって、自らのメディアで好きなことを自由に主張しているだけでは、一般社会に対する説得力としては今一つ弱い面もある。そこで、言論の市場で処理しきれなくなったら、最終的には裁判という公の場で議論して審判を下してもらうほかない。(後略)(116頁~117頁)
法律家らしいバランスのとれた優れた見解であるが、疑問もある。
1 まず、「訴訟を通じて真相を明らかに」する、というのはどうであろう。法律家のおごりはないであろうか。裁判所は法律問題を裁くところで、具体的には名誉権の侵害の有無に焦点が絞られる。名誉権の侵害があったかなかったか、という法律問題については「真相」が明らかになりうることは期待できても、事件自体の「真相」があきらかになると考えるべき根拠はない。
2 そうであるとするならば、メディアが事件ないし紛争自体の真相を明らかにせずに、名誉毀損という法律的な問題を争うというのは「権利救済」の問題としては理解できるが、「一般社会に訴えること」を目的としてはいけないのではないか。まして、対抗言論では説得力がないが、裁判所の判決には「説得力」があると考えるのは、メディアの側が自分自身の存在意義を放棄しているようにすら思える。
3 そして、そもそも、裁判所といえども、国家機関であることを思えば、メディアが軽々しくその権威に傅くべきではないであろう。
とすれば、朝日新聞がNHK問題について、NHKに対して訴訟も辞せず、というのはどうなんだろう。もちろん、朝日新聞の権利が侵害されているのなら、その救済を裁判所にもとめるのはわかる。たとえば、損害賠償を得たいというのなら。
しかし、名誉の回復を求めるというのは、どうなんだろうか。
だいたい、朝日はメディアへの政治の介入がけしからんといって、あの記事を掲載したのであろう。もちろん、政治家が隠微に番組内容に介入した(というのは、朝日の主観)ことと裁判所の判決とは同断では無かろうが、しかし、メディアに権力がなにがしか強制するという点では同じである。裁判所という国家権力の前に表現の自由がひれ伏しても結構というのなら、それでもよい。しかし、表現の自由は、本来、公権力の行使からこそ、もっとも自由であるべき権利である。
もし、そうでないというのならば、朝日は人権擁護法案に反対する理由を示すべきであろう。(因みにわたしは、徹底して反対である。(なお、極論ということを前提として聞いていただきたいが、法と経済学派のある重鎮はプライバシーは保護されるべきでないと主張している。わたしは、これに同調しないが、プライバシー権というのはその程度のものとの認識も必要だと思っている。))
裁判所の裁判官の方が、NHKの視聴者や朝日の読者より真相を見つけうるのだと考えるのは、一種の権威主義ではないか、と思う。
権威主義一般がいけないというわけでもないかもしれないが、権威主義的であるという自覚は、せめて必要であろう。
それにしても、この問題の登場人物達は、いずれも、なんというか、矜持を感じさせないね。
(っと、これは名誉毀損それとも侮辱)
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