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zoom RSS 政治の傲慢

<<   作成日時 : 2015/06/09 20:16   >>

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 さる6月4日、衆院憲法審査会に参考人として与野党から推薦をうけて招致された憲法学者3名が、いずれも審議中の安全保障関連法案について違憲の見解を表明した。
 特に、与党から推薦された長谷部恭男教授が違憲の見解を示したことが、政界、メディアで話題となっている。

 なぜ、長谷部教授を自民党が推薦したのか不明だが、おそらく、特定秘密保護法等についての意見などが政府よりとみられたからであろう。

 しかし、あらためていうまでもなく、長谷部教授の著作を読んでいれば、こういう結論になることは明らかだったはずだ。もし、教授が、従来の政府見解に照らして合憲であるという見解を述べたのであれば、僕は、彼に対する敬意を失わなければならなかった。

 少し、話が寄り道をする感じになるが、9条解釈についておさらいしておこう。

 日本の戦後政治を彩る憲法論争について、その中心の一つが再軍備の問題であった。つまり、自衛隊が違憲か合憲かということである。

 朝鮮戦争のドサクサで、米の占領政策の急激な転換のもとに再軍備がはじまったという負の歴史はある。
 しかし、ナチスが完全消滅した戦後ドイツとは異なって、日本の戦後社会に旧体制の残滓というべきものが多くあるなかで、単に9条の問題というわけでなく、改憲自体に、大衆が警戒的であったことが、憲法改正による再軍備ができなかった原因であったろう。
 実際、大衆は、自衛隊というかたちので再軍備は認めてきたのであり、認めなかったのは、憲法に手をつけるということだったからだ。再軍備自体につよい反対があれば、憲法論争というかたちをとるまでもなく、再軍備はなかったであろう。
 しかし、再軍備を容認した大衆も、憲法改正に自民党がのめりこんでいれば、おそらく自民党を見はなしていたであろう。広範な人権保障をみとめた日本国憲法を、単に占領憲法としてしかみない権力者に対しては、保守的な大衆からも懐疑的な目で見られていた。
 そこで、改憲の是非ではなく、自衛隊の合憲性が、保革の政治的なイシューとして挙がってきたわけだ。つまり、改憲勢力の掲げる改憲構想が国民の支持を得ることがないので、改憲は政治的なイシューとならず、その代りに再軍備問題が憲法解釈論争というかたちをとってしまった。
 9条が、もっぱら再軍備問題として論じられた後遺症は、存外、重い。

 9条1項は、国際紛争を解決する手段として戦争・武力行使等を放棄している。
 同2項は、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力の不保持。交戦権否認している。

 A説(多数説)は、1項で侵略戦争放棄説(自衛戦争合憲説)。2項で戦力不保持説(自衛隊違憲説)。
 B説(政府説)は、1項で侵略戦争放棄説(自衛戦争合憲説)。2項で戦力不保持・自衛戦力合憲説(自衛のための最小限の戦力合憲説)(自衛隊合憲説)。
 C説(少数説・違憲説)は、1項で全面戦争放棄説(自衛戦争違憲説)。2項は戦力不保持説(自衛隊違憲説)。
 D説(少数説・合憲説)は、1項で侵略戦争放棄説(自衛戦争合憲説)。2項は侵略的戦力不保持説。(前項の目的を達するために放棄されたのは、侵略戦争のための戦力)(自衛隊合憲説)

 となる。
 しかし、政府解釈が学説のB説とまったく同じかというと、政府解釈の方が実はより限定的であった。
 元来、政府は1項の全面放棄説から出発した経緯があり、1項でも否定されていないものとして自衛権の行使があるとした。これは、侵略戦争だけを放棄したというのは幅が異なるだろう。本来、全部放棄されているだろうけど、それでも放棄されえない自然権としての自衛権の行使(必要最小限の武力行使)が残るのだというのと、放棄されたのは侵略戦争だけというのとは、運用の幅も思想的な基盤も異なっている。
 この差がなかなか認識されなかったのは、自衛隊合憲か違憲かという2項の論点に議論が集約されていったからであろう。

 政府の憲法解釈は、多数派の憲法学説にも目配りをしつつ、しかし、結論において妥当な内容になるように、構築されたものと理解できる。
 ときにガラス細工と評される所以でもある。

 さて、そうであるとすると、それを個別的自衛権というかどうかは別にして、自国が侵略された時の必要最小限の武力の行使だけが、国家の自然権として、9条の文言にもかかわらず認められるとする政府の従来の解釈からは今回の安保法制によって許容しようとする行為類型を合理化することができるとは、論理と日本語を重んじる以上は、考えられないであろう。
 それが、ほとんどの憲法学者が、違憲説をとる理由である。

 もちろん、多数説(A説)、政府説(B説)ではなく、D説をとる者(僕がそうであるけど)であれば、合憲の余地は多くなろう。
 9条1項を侵略戦争放棄説とし、9条2項は侵略戦争遂行戦力の不保持を決めたものとすれば、集団的自衛権の行使そのものも、それを自衛隊の任務とすることも、合憲と考える余地はあろう。

 しかし、当の政府が、今回の法制度を従来の憲法解釈を敷衍したものと主張するのであれば、それは論理的に成り立たないと考えるのが、専門家の社会において通常一般であるということなのである。


 問題は、その後の自民党やこれを支持するメディア等の論調である。
 なかば、長谷部教授を貶めたり、あるいは、憲法学自体を嘲弄するかのような議論が、責任ある立場の人々からもでていることには、本当にびっくりする。

 そもそも、長谷部教授を引っ張り出した理由に、長谷部教授その人に権威があったからであろう。
 もし、長谷部教授が自民党の意に沿う主張をしたのならば、慶大の小林名誉教授には申し訳ない言い草になるけれども、その影響力は絶大であったろう。
 研究者としての実績や知名度は、多少なりとも、法律や憲法に関心のある者にとっては、あまりに知れ渡っている。

 そういう長谷部教授の権威を政治的に利用しておいて、うまくいかなくなると、手のひらを返したように、「なんだ、あの学者は」「ああいう学舎をよんだ自民党がお粗末」などと自民党関係者や応援団が言い募るのは、それ自体、見苦しいというだけなく、およそ、学問というものに対する敬意を感じさせない、不遜で傲慢な態度である。
 長谷部教授ほどの高名な学者を知らないという国会議員が存在するということに、まず、驚くし、そして、軽蔑するわけだが、彼ほどの高名な学者が何を書いているかも知らずに、国会に呼び出すという不誠実で不勉強な態度には、ある意味、恐れ入るしかない。どうしたら、そんなに不勉強でいることができるのか。
 はっきりいおう。バカばっかりだ。

 そのバカが、己らのバカさ加減にまったく気が付くことなく、巨大な知性を無頓着に批判している光景を目にして、ただ、国民から負託されて権力を行使するという立場にいるだけなのに、なにか、権力を、自身の生まれ持った能力であるかのように誤解して、他人を見下すことに慣れきっているとしか思えない。

 なんという、傲慢。
 そして、知性の退廃。
 今の日本社会の病理が、ここに象徴的に表れている。


 そもそも、違憲、違憲状態の選挙で選出された議員たちが、改憲や改憲に匹敵する憲法解釈を論じる資格があるのかね。
 経済政策がうまくいっている(?)から、なんか、不問にふされてしまった感があるけど、議員定数是正をやるといって、時の総理に解散させて、権力の座にありついたのに、その約束を平気で反故にしているような連中が、道徳の教科化を進めようなんて、笑わせてくれる。
 こういう人間に、尊敬されても、松陰先生も迷惑なだけだろう。
 
 

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