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話はまったく変わる。 市の対応を逆恨みして、当時の長崎市長(選挙中)を殺害した元暴力団組長に長崎地裁が死刑判決を下した。 城尾被告に死刑=長崎地裁「民主主義揺るがす」−弁護側は控訴・市長射殺事件) 遺族の感情も理解できるし、要人テロに対しては毅然とした態度をとるべきだという主張(例えば、こちらは説得的)にも根拠はあると思う。 しかし、この判決には何か釈然としないものが残る。 この判決における死刑という量刑の根拠は、「被害者の政治活動の自由を永遠に奪い、市民の選挙権行使を妨害し、民主主義を根底から揺るがせた」という点にあるのであろう。 これが、従来からの死刑基準に照らしてどうかということはよくわからないが、個人的法益である生命を侵害する行為を処罰する殺人罪において、民主主義を根底から揺るがせたという事情(「国体変革」?)をどの程度まで、量刑に反映させるべきなのか、どうにも釈然としない。 せいぜい、「被害者の政治活動の自由」「市民の選挙権行使(に対する期待権?)」あたりまでが、漠然としながらも、事案に対して斟酌しても無理でない個別的な事情のように、ボクには思われる。 そもそも、民主主義云々ということは、居酒屋での議論はともかく、今回の事件において法的に問われるべきことであったのだろうか。 むしろ、国事犯なら、そう簡単に死刑にすべきではないという考え方さえありうるあろう。 この判決の報に接して感じたのは、確かに、いささか的外れだったかもしれないが、「市長の生命は一般人の生命の2倍以上の価値があるということか?」というものだった。 というのは、たとえば、およそ、暴力団の理不尽な暴力が厳罰に処されるべきであるというなら、ボクも無論賛成(これは、対民間暴力でも当然同じ。)だが、厳罰に処されるべきは、選挙期間中の市長に対するテロ(?)であるという。 行政対象暴力に晒されている公務員は、この長崎市においても、当然市長だけではないはずである。 しかし、本判決のロジックでは、選挙に関係のない、例えば部長とか課長とかが、逆恨みされて無残に殺されても死刑とはならないことになろう。また、民間の社長や従業員が暴力団に逆恨みされて殺されても、死刑にならない。 とすると、職業政治家の生命は、民主主義云々というを言論的回路をとおることによって、一般国民の生命よりも保護されるべきだとことになるのではないか。 むろん、選挙によって明らかになった民意を暴力によって覆そうとする暴力に対しては、ある種の形容として「民主主義を脅かす」といえなくもない。(例えば、岐阜の御嵩事件のような) しかし、その場合でも、本来は、町長に対するテロであっても、町の職員に対するテロであっても、示された民意をテロによって覆そうとする限りは同質なのではないか。町の職員が暴力の対象となったとしても、誰も民主主義への脅威とは考えないのではなかろうか。 ボクは、二元論者だが、漠然と社会的相当性をもちこんだ結果、、結果無価値論者が批判するような(例えば、例の西山事件におけるような)本来の保護法益でないものこそが、むしろ実質的に保護されるという奇妙な現象と、ほぼ、同様な「奇妙さ」を今回の判決にも感じてしまう。 要人テロに立ち向かうには、どうすべきなのか? でも、殺人罪における量刑で、事情を汲んでいくことをまったく否定するつもりはない。 新たな刑罰を設けるよりも、その方が良いかもしれない。…良いかも知れないが、なんか、すわりが悪いよねと思う。居心地が良くないな、という、ある意味それだけの話なのでした。 |
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長崎市長射殺事件判決
長崎市長射殺事件の地裁判決が出た。新聞はこのように見出しをつけた。 選挙テロ「許し難い」、反社会性重視し極刑選択…長崎市長銃撃判決 読売 長崎市長射殺に死刑 選挙中凶行 『民主主義揺るがす』東京新聞 長崎市長射殺:被告に死刑判決 「民主主義揺るがした」 選挙への影響、重視−−地裁 毎日 長崎市長射殺:地裁死刑判決 行政への暴力、指弾 どよめく法廷内 毎日 ...続きを見る |
飯大蔵の言いたい事 2008/05/30 00:25 |
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