本村氏が、判決を受け取った気持ちを聞かれての感想がサンケイにのっていた。決して喜ばしいことではない。厳粛な気持ちでこの判決を受け止めています。遺族としては満たされたのですが、社会にとってみれば事件をめぐり私の妻と娘、そして被告の3人の命が奪われることになるわけで、これは明らかに社会にとって不利益なことです。私はこの事件にあって、いわゆる刑法というものは社会正義を維持するための手段だと思っています。たいへん重い判決が出されましたが、それで終わるのではなくて、私たちもこの重い判決を受けて、今後の人生をまっとうに生きていかなければならないと思います。社会のみなさまにも、どうすれば犯罪も被害者も生まない、死刑という残虐な刑が下されない社会になるのか考える契機にならなければと思います。死刑の存廃が騒がれるようになるかもしれませんが、刑罰がどうすれば社会が安全で平和な環境を作れるか考える契機になることを願います(サンケイ(4月22日)) 彼は、被告人の生命も含めて、人命が奪われることを社会の不利益と評価し、また、死刑自体が「残虐な刑」であるともいう。 しかし、彼はそういうことは理解したうえで、法というものが社会正義を維持するための手段であるという。 わたしは、彼がもつような、素朴な、しかし、真剣な正義感情こそ、法が刑罰を用意すること可能にするものであろうと思う。 生命であろうと、自由であろうと、あるいは名誉や金銭であろうと、これを刑罰の名の下に剥奪するということの本質に代わりがない。 問題は、罪と均衡のある刑罰が用意できるかどうかというだけにすぎない。 そのときに、死刑の存在の必要性はは、少なくとも現状では否定できないと思われる。自分の生命をもってしか償うことができない犯罪というものがありうる以上、死刑を否定することはできない。 また、贖罪という点からも、自分一個の「死」を前にしてしか反省できないということはあるだろう。 しかし、それは、われわれの社会の側の未成熟、あるいは、人間(社会)のどうしようもなさというものと深く結びついている。 彼は、声高に死刑にしろといっているのではない。どっかの府知事のようなお調子者の上ずった弁護人批判ではない。 彼は、わたしたちのどうしようもなさを凝視した上で、あえて、そこに光を読み取ろうとしているのだ。 死刑があるがゆえに、罪と向き合うことができる。 彼は、被告人に「福音」をたれているだ。被告人を救おうというのだ。 彼の、厳粛な、しかし、本質的に優しい気持ちに向き合おうとしない(しようとさせなかった)被告人(弁護人)には、無論、救済はおとずれまい。 しかし、この場に立ち会わされているのは、われわれも同じだ。 かれの、問いに向き合わなければ、われわれも救われることがないのだ。 |
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死刑について
光市母子殺害事件の高裁での判決が出た。どちらの判決が出ようとも、裁判は続くから一つの経過点に過ぎない。 ...続きを見る |
飯大蔵の言いたい事 2008/04/22 22:30 |
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