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<<   作成日時 : 2005/12/29 04:17   >>

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中国の共産党政権の成立をどう評価するかは別としても、その功績のひとつとして中国における阿片問題の「解決」を挙げることは、決して公平を欠く態度とはいえないだろう。

東アジアにおける「伝統的」な国際社会の構造の崩壊の契機ともなり、ひいては、日本をして近代化(西欧化)に走らせることとなったのが、アヘン戦争(における清国の敗北)であった。
そして、決して単線のレールの上を走っていたわけではないにしても、トルコと同様に老大国は帝国主義列強の草刈場と化し、1949年の中華人民共和国の成立をまつまで、実質的に植民地の悲哀をかこつことになるのである。
しかし、当時の清朝においても、なお、ことの重大さが認識されていたとはいいがたく、おそらく、帝国の周縁を外夷が荒らしたという程度の認識(「倭寇」と同視するような感覚)しか持ち得なかったのであろう。
この敗北の結果、あの強大な帝国が蝕まれていくことになろうとはおよそ想像など、できなかったはずなのだ。

アヘン戦争は、二重の意味で不法であった。もちろん、ひとつは、阿片を売るということ自体の不正義であるが、もうひとつは、なんであれ、当事国が輸入したくないというものを他の国が武力により輸出を強要したという不正義である。
したがって、中国における阿片問題の解決は、民生の安定という内政的側面と同時に、すぐれて対外的な(というより「対外」がありうる)問題の解決でもあったのである。
(あるいは、むしろ内政的な側面の解決はまだまだ、図られていない可能性もあろう。)

当時の清朝の中にも阿片売買黙認論があったように、阿片吸引が絶対的に否定されるものだとは、単純にはいえないかもしれない。
結局、阿片吸引を禁止するのは、国家によるパターナリズムであろう。そうであれば、「自己責任」に還元できるかもしれず、国家がこれに介入する必要はなかったいう議論もありえよう。
あるいは、社会に対する害悪こそが否定論の根拠だとしたら、阿片吸引による害悪が実証的に、しかも他の害悪と比較してより重大である、といえなければ、これを自由貿易を否定してまで、守る価値はなかったという議論もありえなくはない。
しかし、そういう議論はおかしい。なぜなら、当時の中国社会あるいは政府が、阿片吸引による個人・社会のリスクを見積もる上で、そのリスクを(量的には小さなものであったとしても)重大なものと評価することを誰にも否定できないからである。
たとえば、阿片に頼らざるを得ないような劣悪な労働・生活環境が当時の中国社会にあったとして、そういう環境にある民衆は阿片により廃疾にいたらなくとも、ほかの理由で廃疾にいたる可能性が少なくはないだろう。だからといって、当時の中国が阿片による廃疾の方が非人道的であるとすることは、その社会の自主性にゆだねられるべきであって、十分理由があるように思われる。
また、その手段についても、阿片吸引のみを厳罰に処罰するという方法によっても、阿片の害悪を除くことができたとしても、阿片の輸入を禁じるという手段を講じることが合理的でないとはいえないであろう。

つまり、こういうことである。
何が、その社会にとって危険であるかは、その社会がきめることができる。
そして、危険であるものをコントロールする手段に、何をもちいるかもその社会が決めることができる。
もし、その社会がそのようなことができないならば、その社会は、自由ではない。

え? 当たり前?
いや、だったら、B…

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