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zoom RSS 憲法に「国家理念」はいらない

<<   作成日時 : 2004/11/05 22:07   >>

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憲法学の研究者でもない、わたしが、こういうことを書くのはいささか憚られる。しかし、先日「政治における「理念」と「技術」」という記事で、非礼を省みずstandpoint1989氏の論考から触発されて駄文を書いた者としては、ここで黙ってしまっては、氏に申し訳がたたない。

日本憲法学史を随分乱暴な形で要約すると、次のようになろうか。
1 旧憲法時代では、「万世一系」の天皇統治を「国体」として、これをいわば国家理念の中軸に据える憲法学が正統学派(穂積八束・上杉慎吉)であった。
2 これに対して、旧憲法の「立憲主義」的解釈のために、国家法人説を道具に、天皇主権の制約をこころみようとしたのが、美濃部・佐々木らであった。
3 戦後は、逆に価値転倒し、宮沢・芦部の通説的憲法学は、個人尊重(特にその精神的自由)を最高価値とする実体的価値秩序(階層)を憲法に見出し、それらの実体的価値秩序を維持するための道具として、人権、統治機構を位置づけた。
4 これに対して、松井茂記は憲法は民主政を定めたものとして、実体的価値の優劣は民主制過程に開放されており、憲法は実体的価値の優劣については沈黙を守るべきだとする。ただ、民主制過程に瑕疵が生じないように一定の人権(「表現の自由」や「平等権」)を保障する必要があることを強調する。
5 松井教授のプロセス的憲法論が民主制につよい信頼をおくのに反し、民主制が機能しうる場合を限定的にとらえ、人権の根拠を、民主制を含むいかなる政治も口出しすべきでない領域の保障にみるのが、リベラル・デモクラシーを主張する長谷部恭男教授である。

わたしのみるところ、1,3は憲法が積極的に国民を「指導」する理念を有すべきだという主張を有する点で、双子である。
しかし、わたしは、憲法がなにがしかの理念を有することは否定し得ないとしても、それは、社会に存在する、あるいは、存在しうる価値のうちのいずれか一方に立つことを前提とすべきでないと考える。
かかる点で、4ないし5の主張は、距離があるものの、従来の通説(実体的価値秩序説)を乗り越えようとする点で共通しており、わたしは、これに共感をよせるものである。(国家法人説をどう理解するかだが、没理念的に憲法の道具性を強調するという意味においては、4ないし5の主張の先駆的意味合いも有ろうか、と考えている)

とはいえ、4ないし5の主張も、全く、理念を有していないわけではない。それぞれ、「民主主義」や「立憲主義」という特定の立場に立つものである。
わたしは、しかし、かかる「立場」こそが、憲法のよってたつ「価値」であり、これ以外に、「社会主義」であるとか、「日本的」であるとか、「イスラム教的」であるとか、そういう「理念」を憲法に謳ったものは近代憲法の系譜からはずれており、「憲法」の名に値しないと考える。

憲法前文の「理念」性も、無前提のものではなく、かかる憲法観に上に再構成されるべきものだと思う。基本的人権の尊重や国民主権は、そのものずばりで、何の問題もないだろうが、平和主義や国際協調主義が、「立憲」=「民主」主義の立場からどういちづけられるのか、検討を要しよう。

さて、なぜ、わたしがこんな「わかりきった」話をくどくどと、述べているのかであるが、実は少し「がっかりした」ことがあったからだ。

わたしが愛読させていただいているブログにpriestk氏の「ぷち総研」というブログがある。
そこでの記事「もはや「憲法」と呼べない」http://priestk.exblog.jp/809852/に全く同意していたのだが、やはり良質のブログ「Shu's blog 雌伏編 」の記事「憲法の理念等」http://rainy.seesaa.net/article/961228.htmlを受けて、同記事に関するコメントの中で「憲法調査会が主張するように、目指すべき「国家的理念」を憲法に盛り込みたいという主張は認めてもいいと思います」と priestk氏は発言する。もとより、氏は自民党的な国家理念を忌避した上で、一般論として語っているのであり、それは、先に見たように今日の通説的な憲法理解から離れているわけでもないのだから、非難にあたいするわけでもない。このことは、同様に「Shu's blog 雌伏編 」をかかれているShu氏についても、そうである。
まして、priestk氏は次の記事「ぷち対談:憲法とはなんぞや?」http://priestk.exblog.jp/846496/において、憲法の原則的な姿を「国権制限」においているのだから、なんの問題もないように感じる。

しかし、わたしからはpriestk氏が最初の記事から後退したように思える。もし、そうだとしたら、当初の記事に全面的な共感を感じただけに残念に思う。(←ここが、がっかりポイント)

憲法に「国家理念」を求めるものは、かならずや、多数者の「理念」を普遍的なものとして、憲法にもちこもうとするに違いない。「常識」論を突破口として、少数者に抑圧的な価値を潜り込ませようとするだろう。
たとえば、「家庭生活」を強調すれば、女性やこどもに抑圧的に働く。「勤労」を強調すれば、「働く」ことができない、障害者、病者、社会的階層から「働く」機会を奪われている人々に抑圧的に働く。「愛国心」を強調すれば、平和主義者、国際主義者、外国人、あるいは愛国的であることを必ずしも無上の価値と認めていない人々に抑圧的に働く。
逆に、「平和主義」を過度に強調すれば、自衛官、国粋主義者、相対的な平和主義者を抑圧することにもなろう。冗談ではなく、オーウェルの小説の逆説的なスローガン「もっと平等」をもじれば「もっと平和」の抑圧性が想像できよう。
憲法に必要な「理念」は、「理念」に気をつけろ、あるいは、「理念」を語るなかれ、ということだと思う。国家に「理念」は必要ない。国家は「理念」を異にする人々が共存する「公」的な空間である。憲法は「理念」を異にする人々が、共存しうる「技術」の集約であるべきだ。それ以上のものを憲法に求めては、憲法の前提とする大切な価値が失われしまう。

なお、最後に感謝と反省を。
priestk氏もShu氏も大変すぐれたブロガーである。もとより、わたしのフォローがきちんとなされているというつもりもないが、「お気に入り」に加えさせていただいており、日頃より勉強させていただいている。お二人に、ここで取り上げさせていただいたことをお詫びするとともに感謝を捧げたい。
次に、standpoint1989氏の論考に触発されて駄文を書いたときに、駄文がもとで氏にご迷惑をかけたのではないかと、いたたまれぬ思いをしたことがあった。これも、自分の理解力を棚にあげて、他人様の記事を引用してあれこれと強引な議論をしたことが原因だったのではないか、と思う。今回、かような、ご迷惑を両氏にかけることにならねばよいが、と思う。
なお、両氏のブログにTBしない理由は、「政治における「理念」と「技術」」という記事で書いたのと全く同様な理由からであって、他意はない。

それにしても、ご両人が指摘されるように、自民党の動向は見張っておく必要があるようだ。
なお、再々度強調しておくが、わたしは、いわゆる「護憲派」ではない。

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タイトル (本文) ブログ名/日時
憲法改正か「新憲法」か
というのは、報道で知る限り自民党は、憲法改正なんて生やさしいことを考えているのではないらしい。 ...続きを見る
nagoyan@WebryBlog
2004/11/19 23:04

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
いつも大変勉強になります。
なるほど、憲法は「絶対君主による恣意的な国家権力の行使を制限」するものですか。
今の日本の絶対君主といえば、いわゆる「国民」。
あ、なるほど、それで一部の「国民」の恣意的な国家権力を行使した鈴木宗男氏が有罪になったんだと納得しました。(冗談です。)(笑)
しかし、「国家理念」つきつめると、まるで宗教みたいですね。(笑)
流 相馬
2004/11/05 23:56
コメントありがとうございます。
そうなんですよ。
「暴君」がありうるように「暴民」もありえるでしょうし、「国家理念」なんてのは、わたしには、宗教みたいな神秘主義にしか思えません。実際、過剰な国家理念を流出している米国とか中国などのいかがわしさといったら。
それにしても、わたしが大量の駄文で主張したことを、流さんは的確に表現してしまいますね。自分の表現力のなさが恨めしくなります。
nagoyan
2004/11/06 08:11
駄文なんて、とんでもございません。いつも凄いと思って読んでます。
私には、書けませんから。
宗教といえば、イギリス人の誰だったかは忘れましたが、「日本教」なるものがあると言ってますね。(笑)
流 相馬
2004/11/06 12:20
 はじめましてっ ^^)
 非っ常に興味深く拝見しました。
 たいへん考えさせられる見識だと思います。実際、今も考えていますし、私の今後のこの分野の思索の中で、重要な材料のひとつにしたいと思っています。
 実に難しいですね、この問題は。
 僕は、「多様性」ということを、政治を考える際(国内、国際とも)の柱のひとつにしているのですが、多様性ということを保証する要のような意味合いでの、何らかの共同体としての共通理念的なものの必要性がないだろうか、という観点での模索を、憲法についても思索しているといった感じです。(同時に、「国権制限」と「理念」というのが二本柱というのは、観察結果という面もありますが)
(つづく)
Shu UETA
2004/11/07 02:03
 (つづき)
 しかし、一方の見識として、仰ることはよくわかります。先述したとおり、これも今後の思索にインプットしたいと思います。
 つきましては、ご信条に反されるかもしれませんが、私の元記事までT/Bしていただけるとうれしいのですが。他の読者にもぜひ読んでもらいたいので。お差し支えなければ、よろしくお願いします。なお、T/B用URLは、http://blog.seesaa.jp/tb/961228です。
 今後とも、ご意見を交換できれば、非常にうれしいです。僕同様、何らかの思想的立場ありきではなく、都度、偏らない思考をされるタイプの方とお見受けしました。
 今後ともよろしくお願いします。^^)v
 Shu UETA / Shu's blog
Shu UETA
2004/11/07 02:04
Shu様
こちらこそ、はじめまして。nagoyanと申します。
勉強させていただいております。
お言葉に甘えさせていただきまして、TBさせていただきました。Shu様のblogの品位を落とすものでなければよいが、と願っております。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
ご指摘の点は、理解できるつもりです。国家自体のアイデンティティのようなものが必要だということでしょうか。わたしは、立憲民主主義の外に、国家が理念を有しようとすることに懐疑的ですが、この点についても、結論を急ぎすぎないようにじっくり考え直していこうかと、思っております。(ありゃ、自分も「後退」しちゃったかな。priestk様、申し訳ありませんでした。)
nagoyan
2004/11/07 15:02
はじめまして。priestkと申します。
自分のヘナチョコ記事を「解題」していただいたようで、お気恥ずかしいかぎりです。(*^^*)
「後退」したという自覚はなかったのですが、nagoyan様の記事を拝見して、ちょっと自信が揺らいでいます。(^^)この記事を読んだ感想ですが、コメント欄に書くにはあまりに長文となってしまいましたので、恐縮ですが、「ぷち総研」の方に新しい記事として書かせていただきました(ご迷惑でしたら削除いたします。ご一報下さい)。
 ところで、standpoint1989さんの「政治における「理念」と「技術」」には僕も非常に影響を受けました。拙文の中で、「常識的」な善意の人々が自民党の憲法観に吸い寄せられていく危険を指摘したのも、このような問題意識の延長線上にあります。nagoyan様のブログも、その頃から興味深く拝見させていただいておりました。今後とも、どうぞよろしくお願いします。
priestk
2004/11/07 23:11
priestk様
こちらこそ、はじめまして、よろしくお願いします。
priestk様のblogの記事は、おそらくstandpoint1989様のblogから拝見させていただき機会を得たではないか、と思います。というわけで、priestk様の記事は拝見させていただいており、なんか「はじめまして」という気がしません。
なお、「後退」云々は、わたしの「早合点」ではないか、と不安に思います。
というのは、実は、standpoint様の記事について、以前云々した記事でstandpoint様の記事の理解として適当でないとしている「理解」は、実は当初のわたしの「理解」だったのです。しかし、そうすると今までのstandpoint様の見解と、しっくりこないと思って読み返してみて、第二の「理解」に到達し、その上で所論を述べさせていただいたのです。つまり、あの記事はわたしの誤読自体が論難の対象なのでした。
今回もわたしの「誤読」の可能性が高いのでは、と申し訳なく思います。
こんな、わたしですが、今後とも、よろしくお願い申し上げます。
nagoyan
2004/11/08 19:08
東京大学法学部の憲法の教授が痴漢してつかまっていました。日ごろから憲法を教えながら、平気でヒトの人権を破壊する教育者なんて最悪です。日本の憲法は死んだなあと思いました。
ゆきえ
2007/06/27 16:19

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